私はよく、回っている洗濯機の前に立って、その中を覗き込んでいた。
今の全自動洗濯機であれば、洗濯中の洗濯機の中を覗き込むなどということはできないようになっているので、その様子を想像することはできないかもしれない。
昔は二層式洗濯機というもので、洗濯槽と脱水槽の二つに分かれていた。だからその形は机のように横長の長方形だったことも、実は今思い出した。
洗濯槽で洗われた洗濯物を、排水しながらその横の脱水槽に手で掴んで放り込み、脱水開始のスイッチを入れて脱水槽を回すのである。
その間、排水が終わった洗濯槽に再び給水し、すすぎの工程に進む準備をしておく。
ともかく小学校5年生ぐらいになると、背が伸びて洗濯槽の中を上から覗き込むことができた。
何を見ていたのか。洗剤水の中でぐるぐると攪拌される洗濯物ではない。なぜならそれは見えないから。
洗濯槽には、洗剤水が攪拌されてできた泡が中心部に集まり、こんもりと盛り上がっていたのだ。
「洗い」の時間はおおよそ8分〜12分だったと思う。その間、ずっと泡は発生し続けては中心部に寄り集まってきて、その塊はただただ大きく成長していく。
…はずなのだ。
どこまで大きくなっていくのかが気になって、わたしはそれをずっと眺めていたものだった。
しかし、中学一年生のある日、ふと気がついた。
泡の塊は、ある程度の大きさにはなっても、そこからずっと大きくなる続けることはできないらしい。
なぜなのか。
私はその泡の塊をもっとよく見ようと、顔を近づけてみた。
すると何やら小さな音がする。
洗濯機の回るごうんごうんという音に隠れて、泡の塊から微かに、チリチリとその塊を構成する小さな泡粒が弾ける音がしている。
その弾ける瞬間を見ることはできないが、確かにその塊の中のどれかの泡粒が常に消滅していっているのだ。
ほんの小さな泡粒たちは、水流によって絶えず生まれて、押し上げられては寿命が尽きた順番に人知れず弾けて消滅していたのだ。
泡の塊はこのサイクルを延々と繰り返してそこに存在していた。
その存在は、私の頭の中で地球とそこに生きる命の姿に変わっていった。
洗濯槽の宇宙には、ただ生み出されては消えていく泡粒によって構成された世界があって、私は、私たちはその代謝の一粒に過ぎないのかもしれないという考えに取り憑かれたのはこの頃だったと思う。