昨日から今日にかけて、結構な勢いで雨が降っている。
春だと言うのに気温が低く、まるで冬に逆戻りしたかのような寒さである。
満開の桜もおかげで枝も花弁もかじかんでしまって、あれだけ強い雨に叩かれているというのに、散ることが出来ないでいるかのようだ。
花冷えなどと言う言葉が古くからあるぐらいなのだから、これはこの時期、決して珍しいことでもないのだけれど、一旦うららかなあの春の暖かい陽気に包まれたこの地上には薄らぼんやりと春の息吹が滲み出ていて、それは確かに身体の奥深くで頑なだった何かを緩めているのだった。
私は部屋の中にまで染みてくる雨音を聞きながら、ふと、雨の中を出かけてみたいと思った。
別にどこか行き先を思いついたわけでもないのにそんなことを思うのも、季節が変わった証であることに間違いはなさそうだ。
雨の桜並木というのも、見物すればしたなりに何か思うものがあるのかもしれないし。
そう考えて、ここしばらくのところ持ち続けている、桜の木にまつわるある疑問を思い出した。
桜の樹というのはどうして、あんなに苦悶に満ちた形をしているのだろう。
まるで墓の土の下から突き出された亡者の手のようにすら見える。
特に樹齢のいった大きな樹と言ったら、何やら目に見えない重石を持ち上げるかのように横に広がりながら伸びて行き、その途中で出会ってしまった何かを避けるかのように身をよじって伸びる方向を換え、その結果、何かひどく抑圧される中を悶絶するような姿を地上に晒しているという有様に見えるのである。もっと言えば、わざわざ地上に出て来るご面相なのだろうかとさえ思ってしまう。それこそ、伸びゆく場所を探りながら蔓延っていく根っこのような様相なのだから。そう考えると、引き抜くと人間の形をしていてこの世のものとは思えない恐ろしい叫び声を発するというマンドラゴラのイメージともまた被ってくるのである。
そう、木というのは地上の幹や枝葉の伸びる勢いに劣らぬ旺盛な勢いで地下に根を張っているのだ。地表を境にして上下同じような形をしていると言って良いのかもしれない。
そんな桜の樹の姿を見ていて、ある時ふと考えたことがある。もし、樹木にとって地上がインナーワールド、地下が外界という観念を持っていたとしたら、どういうことになるのだろう?
そうは言ってみても、日頃から樹形をしげしげと眺め観察するようなことをしている人は決して多くないだろう。
桜に限らず、コブシや木蓮、金木犀なども、季節が来て花を付けた時に初めて何の木だったのか気が付くということがあるので、樹形と言われても思い浮かばない人は多いかもしれない。ましてや、花が終わるとそこから葉っぱの成長が始まり、初夏に向かってあれよあれよという間に緑に生い茂ってしまうのだから余計にわからない。
紅葉して葉を落とす冬の間に裸になった樹を眺めることができるのだが、その姿を記憶に止めるなどということは一般的にはあまりないかと思われる。